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憩いの部屋

一つかみの砂金

(今回は、個人的な駄文でして、「ですます調」ではありません。)

twitterを眺めていると、太宰治の一節が流れてきた。

twitterで、自分が選択して、「フォロー」した人がつぶやいた言葉が、次から次への流れてくる。私、個人にとって、twitterは、どちらかといえば、情報収集と人間観察と暇つぶしを兼ねたものになっている。正直なところ、眺めていて、教養が深まっているような感覚が得られることはほとんどない。それが良いのかもしれない。

その中で、太宰の言葉が流れてきて、目を留めた。職業柄か、原典に当たらなければと、早速『太宰治全集5』(ちくま文庫)を購入して、「正義と微笑」を読むことにした。確か『人間失格』を読んだのは、中学か高校の時分だったはずなので、おそらく20年以上ぶりの太宰である。

その『正義と微笑』中に、次のようなくだりがある。twitterのタイムラインに流れたのも、この一部だった。

日記を付けている男子高校生が思い出した、去年に学校を離れた先生が最終授業で伝えた言葉だ。

こんな事を君たちに向って言っちゃ悪いけど、俺はもう、我慢が出来なくなったんだ。教員室の空気が、さ。無学だ! エゴだ。生徒を愛していないんだ。俺は、もう、二年間も教員室で頑張って来たんだ。もういけねえ。クビになる前に、俺のほうから、よした。きょう、この時間だけで、おしまいなんだ。もう君たちとは逢えねえかも知れないけど、お互いに、これから、うんと勉強しよう。勉強というものは、いいものだ。代数や幾何の勉強が、学校を卒業してしまえば、もう何の役にも立たないものだと思っている人もあるようだが、大間違いだ。植物でも、動物でも、物理でも化学でも、時間のゆるす限り勉強して置かなければならん。日常の生活に直接役に立たないような勉強こそ、将来、君たちの人格を完成させるのだ。何も自分の知識を誇る必要はない。勉強して、それから、けろりと忘れてもいいんだ。覚えるということが大事なのではなくて、大事なのは、カルチベートされるということなんだ。カルチュアというのは、公式や単語をたくさん諳記している事でなくて、心を広く持つという事なんだ。つまり、愛するという事を知る事だ。学生時代に不勉強だった人は、社会に出てからも、かならずむごいエゴイストだ。学問なんて、覚えると同時に忘れてしまってもいいものなんだ。けれども、全部忘れてしまっても、その勉強の訓練の底に一つかみの砂金が残っているものだ。これだ。これが貴いのだ。勉強しなければいかん。そうして、その学問を、生活に無理に直接に役立てようとあせってはいかん。ゆったりと、真にカルチベートされた人間になれ! これだけだ、俺の言いたいのは。君たちとは、もうこの教室で一緒に勉強は出来ないね。けれども、君たちの名前は一生わすれないで覚えているぞ。君たちも、たまには俺の事を思い出してくれよ。

『太宰治全集5』「正義と微笑」75頁(ちくま文庫)

この一節を読んで、自分の大学時代に聴いた小野紀明先生の政治思想史の講義の中で、「教養」(Bildung(独))という言葉が取り上げられたことを思い出した。それがヘーゲルのくだりで出てきたのか、ほかの誰か、たとえば現象学の話などで出てきたのか、さっぱり思い出せない。今後、ノートでも見てみよう。

昨今、「自己実現」や「教養」について、語られることがめっきり減ったように思う。その一方で、実学というか、実用的な技術ばかりを重宝がる傾向が強まっているように思う。

高校で三角関数を学習しても、社会に出れば、全く使わない(だから教育課程から外した方がよい)という意見があり、これに対して、いろんなサービスで、三角関数を用いた技術が下敷きになっていて恩恵を受けているという反論があった。私が数学を勉強して役に立ったと思うのは、法律学や弁護活動でも必ず用いる論理的思考や、その論理を表現する作法の他、価値判断を一切入れない学問の存在を知ることが出来たこと、ある問題を解決するのに全く異なる複数の解法があるといった思考の柔軟さなどであろうか。実用的な恩恵だけではなく、三角関数を学ぶことから個人が得られることも沢山あると、今も実感している。

数学を学ぶ過程から得られたことも沢山あったことを思うと、学問を直ちに役に立つか立たないかといった尺度のみで、測ることは、大変危険で、勿体ない。

イノベーティブな発想やディスラプティブなサービスが、市井の人の心を捉えるのは、その発想や姿勢の裏で、普遍的な価値を、培われた教養によって探り当てていることも理由の1つに違いない。「一つかみの砂金」を残すような訓練こそ、急がば回れで、全く新しいサービスを生み出す近道かもしれない。

(追記)
自分の大学時代を振り返って、運がよかったと思うのは、大学1回生の政治学入門で小野紀明教授に出会って、その後も、小野先生の政治思想史の話を直に聞き続けられたことだ。今から振り返れば、小野先生の講義は、自分の短い半生の中で、最大の娯楽の一つであり、自分自身を形成するために必要な時間でもあった。小野先生の話は、いずれどこかで触れて、お伝えしたい。

(文責:森 理俊)

2019年04月25日 13:26|カテゴリー:

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